テレビ製造と一人の青年エンジニアの夢 ~日本のTV放送開始66年~【HIBINOのルーツ発見】

おはようございます。広報のhiroです。


2月1日は「テレビ放送記念日」。

66年前(1953(昭和28)年)の今日、日本のテレビ本放送が始まりました。


受信契約数は866件。

このうち482件が、アマチュアによる「自作のテレビ受像機」 だったといいます。


時はもう2年さかのぼりまして、1951(昭和26)年のこと。

東京・戸越に、独学でテレビ受像機の自作に成功した17歳の青年がいました。

ヒビノの創設者であり現会長の日比野宏明です。


▲ 日比野宏明会長が17歳の時に自作したテレビ受像機



子どものころから鉱石ラジオや5級スーパーラジオなどオーディオ機器の組み立てを趣味としていた宏明少年。1949(昭和24)年、15歳のときに読んだ「漫画作品」をきっかけに、人生をかけて打ち込む道へ踏み出すことになります。


その漫画には「人類の夢」がたくさん描かれていました。


宇宙に行けるロケット!とかね。科学文明の発達で大きく進化する未来像に心が躍ります。特に「テレビ」には、強烈な興味が芽生えました。『自作できるぞ』と思ったからです。


戦前から欧米各国ではテレビの実用化が進んでいました。日本でもNHKがテレビ放送を開始する計画があると知った宏明少年は『テレビ受像機をつくろう』と決意します。


『だれも見たことがないものを作る。知り合いや近所の人を驚かせたい』


その気持ちが15歳の少年を動かしました。

戦後間もない混乱の時代。

未来に希望を見せたかったのです。


文献を集め、構造を学ぶのに1年。

部品を手に入れ、組み立てて調整するのに1年。


自作テレビが完成したとき、少年は17歳になっていました。


▲ 当時の写真。自作テレビ(左)とその画面に映った映像(右)


このころ、NHKは週に1回3時間だけ試験電波を発信していました。


自作テレビを置いた自宅の6畳間には、完成の噂を聞きつけた近所の人たちが集まってきます。生まれて初めて見る装置に、みんな釘付けです。


高価だったテレビ用のブラウン管をオシロスコープの5インチブラウン管で代用したため、映像は白黒ではなく緑がかっていましたが、そこには確かにテレビの映像が映し出されていました。


「街の科学者だ!」

近所の人たちは心から驚き、喜び、彼を誉めました。

評判はたちまち広まって、噂を聞きつけた人からラジオや電気蓄音機の組み立て注文が次々と宏明青年に舞い込むようになります。

この時のモノづくりの経験は、後々の事業の足掛かりとなっていくのです。



時は進んで1953年2月1日、NHKがテレビ本放送を開始し、日本のテレビ時代の幕が開けました。このときシャープが発売した国産第一号のテレビは17万5,000円。初任給が高卒で5,400円の時代ですから、庶民にとっては高嶺の花もいいところです。客寄せ用に置かれた街頭テレビには、毎日、人だかりができました。


これから本格的なテレビの時代になると確信した宏明青年は、海外製テレビの輸入販売を行うミナミテレビに入社します。


▲ ミナミテレビ社員時代の宏明青年。テレビの納入・セッティングを行った旅館のロビーにて。



テレビサービスエンジニアとして技術を磨くとともに顧客対応の経験を積むこと3年。

22歳にして独立を決意します。


1956(昭和31)年、東京・神楽坂に「日比野電機」を開業。このテレビの販売・修理を行う個人商店こそが、当社の前身です。


わずか3坪の貸事務所。

資金もなく、縁もゆかりもない場所で、たった一人の船出。

頼れるのは「自分の技術」だけでした。


少年のころから作り続けていた音響装置の製作や、会社員時代に腕を磨いたテレビ修理はもちろんのこと、洗濯機、冷蔵庫、トースターまで、たのまれればどんな家電だって直しました。


▲ 自作機の一部。左からHi-Fi電気蓄音機/喫茶店に収めたHi-Fiスピーカー/Hi-Fiメインアンプ



そして「テレビ」の販売です!


日比野電機のテレビは、宏明が自ら部品を調達し、組み立て、作り上げる自作品です。

価格は、1台5万円にしました。

この頃、家電メーカーのテレビは14インチで15万円前後でしたから、超破格です!


口コミだけで注文が殺到するようになるのですが、彼の自作テレビが売れに売れた理由は、値段だけではありませんでした。


不具合が出れば、すぐさまテレビを作ったエンジニア本人が駆けつけ修理をしてくれる。

この万全のアフターサービスが信頼と評判を生み、日比野電機のテレビは飛ぶように売れたのです。


▲ 自作テレビの一部。左上:17インチコンソール型テレビ、右上:21インチコンソール型テレビ、左下:21インチテレビ、右下:21インチコンソール型テレビとオシロスコープ(この測定器は17歳のころテレビを作るために自作した機材です)



1959(昭和34)年、皇太子ご成婚をきっかけにテレビは爆発的に普及。

日比野電機のテレビ製造も絶好調!!! ・・・だったのですが、間もなく限界が見えてきます。大手家電メーカーが、量産体制に入ったのです。


大手メーカーに対抗して勝ち目はあるだろうか。

大切なのは、パイオニア精神だ。


宏明は、ここで一つの決断をします。

開業以来手掛けてきたテレビの製造・販売は打ち切り、音響装置に力を入れる。

こうして、次なる市場の開拓に乗り出していったのです。


1964(昭和39)年には、個人商店・日比野電機を母体としてヒビノ電気音響株式会社(現ヒビノ株式会社)を設立。業務用音響機器市場の開拓、日本のコンサート音響の確立、映像分野への進出など、常に業界の戦陣を切って突き進んでいくのでした。



「好きなことを生涯の仕事にしたいと考え、一気に走り抜けてきた」


日比野会長は、そう話してくれました。



日比野宏明という一人の青年エンジニア誕生とヒビノのルーツのお話、いかがでしたでしょうか。ヒビノの原点は、モノづくりと開拓者精神にあったのですね。


この物語の続きは、当社ウェブサイトの社史で詳しくご覧いただけます。

興味のある方は、のぞいてみてくださいね。それでは、また!




【関連リンク】

ヒビノ株式会社の社史「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り」